さやかな夜に
雨が降っていた。
朝から一日中薄闇に重く覆われ、日中か夕暮れか、はたまた既に日は没したのか、判じ難い空模様だった。
水飛沫を飛ばしながら走る。
都合の悪いことに、傘を持っていなかった。
最初の内はそれでも構わなかった。
小雨が全てを洗い流してくれるようでもあり、肌に快く感じられた。
しかし、次第に雨粒が大きくなっていき、遂には雨宿りせざるをえなくなった。
この辺りには狐狸の類も出るという。
どうしたものかと逡巡していると、道の脇に雨宿りに丁度よい空き神社を見つけた。
朽ち果てる寸前といった体で、人里から少し離れ、自分の他に人の気配も獣の気配すらも感じられない。
ならば狐の類に化かされることもないだろうと安堵して境内に入る。
今にも壊れそうな古い扉を慎重に開けて入ると、そこには先客がいた。
思わず声を上げそうになるのを必死で止める。
――人の気配は全くしなかったというのに。
薄ら寒い心地を少しばかり味わいながら、取り敢えず慎重に相手を観察した。
まず目に付いたのは、鮮やかな緋の女物の着物。
それをわざと着崩して妖艶に微笑うのは、黒々とした長い髪を一括りにして横に流した、優男だった。
寛いだ襟元から平らな胸が見えなければ、女と見誤ったかもしれない。
男の後ろには漆黒の布で包まれた包みがあるだけだった。
後は部屋の中央に一つだけ、蝋燭の灯が揺れている。
「先客か」
努めて冷静な声でそう言うと、男はにぃ、と笑った。
「お侍様も雨宿りで?」
男は脇に差した刀を見ながらそう言った。
「ああ。雨が酷くなってきたのでな。そなたは?」
素性の知れぬ相手との雨宿りは、どこか人を不安にさせる。
特に、薄暗い神社の中では。
狭い部屋の中、男の近くに座らざるをえない。
「あたしはケチな芸人でしてね。小銭を稼いでは転々と流れている根無し草ですよ」
「……芸人?」
ちらりと男の後ろにある包みを見る。
すると、男はああと言って包みを開いて見せた。
そこには、優美な丸みを帯びた古い琵琶があった。
丁寧に手入れされているらしく、その表面はつるりとしていた。
「ほう……」
思わず感嘆の声が漏れる。男は再び、にぃ、と笑った。
「ここで出合ったのも何かの縁、またいつ止むとも知れぬ天のご機嫌を伺うつもりで一つやってみせましょうか」
男はそう言うや否や、手馴れた仕草で琵琶を構えると、じょう、と弾き始めた。
じょうじょう、
琵琶の音はこれまでに聞いたことも無い響きで耳を打った。
いや、耳どころではない。
耳を通じて、魂そのものに生々しく響いた。
琵琶の音というよりは余りに生々しく肉感的で、官能的だった。
美しいと言うには憚られ、卑猥と言うには洗練されていた。
何より、一心に琵琶を奏でる男の姿が、先程よりもずっと、まるで何かが憑いたかのように妖艶な色香を纏い、
恍惚としていた。
男か女かの判断さえ曖昧になる。
流し目で一撫でされるだけで、魂すら奪われるかと戦慄した。
しかし、恐ろしいと思いながらも目が離せない。
光に寄せ付けられる蛾のように。
それは人のものではない妖の――
じょう、
最後に一つ琵琶を弾いてから、男は撥を下ろした。
「お耳汚しで御座いました」
一礼されて、漸く我に返った。
そう、ここは薄汚れた神社の中。
急に遠ざかっていた雨音が近くで響いた。
まるで、男の手によって異界に連れ去られていたかのようだ。
男を見ると、既に人ならぬ妖艶さも去り、元の男に戻っていた。
冷や汗を掻きながら息を吐くと、男はやはり、にぃ、と笑った。
「やはりお侍様にはあたしの下品な琵琶は失礼で御座いました。お許し下さいな」
「いや……」
しかし、その後に続ける言葉が出てこない。
「……そなた、名は?」
漸く出てきたのはその一言だった。
男は軽く小首を傾げて、にぃ、と笑う。
「さあ…一つ所に長く留まったことがないもので、その土地その土地で呼び名が変わりましてね。
もう元の名が何だったか覚えておりませんねえ。ただ、この娘の名でしたら」
「この娘?」
男は琵琶を愛おしそうに撫でながら言った。
「ええ。名は朱椿といいます」
男は女を扱うように琵琶を撫でた。不思議と、琵琶も意思のあるそれに見えた。
「まるで、情人のようだな」
思わず口にすると、男はさも意外とばかりにこちらを見た。
「ええ、勿論。ご存知ないですかねえ。楽器は、男にとって女と同じ」
「同じ?」
「ええ。抱いた腕の中で、好い声で、啼かせる……そうで御座いましょう?」
にぃ、と男は笑う。
何故か知れないが、ぞくりと肌が粟立つ。
しかし、琵琶の音が妖艶に響いた訳はわかった気がした。
「それにしても……朱椿とは、不吉な名だな」
搾り出した声は何とか普通の響きで出た。
「ええ、お侍様が厭う華で御座いますからねえ」
また、にぃ、と笑う。
得体の知れぬこの笑いが恐ろしいのだと、漸く気づいた。
「で、お侍様は?」
はっと男を見た。
名を問えば、聞き返されることも当然ある。
そのことに思いが及ばなかった。
しかし、ここまできて言わないという訳にもいかない。
「……高倉」
苦し紛れに苗字のみ伝えると、男は大きく頷いてまた、にぃ、と笑った。
「高倉様ですか。失礼ながら、高倉様は何用でこちらに?」
男が何をしてここにいるのかは先程聞いた。
他愛無い雨宿りの暇潰しに訊いただけだろう。
「ああ、お勤めでな」
「お勤め?」
聞き返す男に、そうだと頷く。
「最近この辺りに人斬りが出るという噂を聞いたことがないか?」
「人斬り、ですか。何分、この辺りに来たばかりでして。そんなに何人も斬られてるんで?」
物騒な話をしているというのに、男は愉快そうに笑う。
それを気味悪く思いながらも話を続けた。
「ああ。……十人目が斬られたばかりだ」
「おや、物騒ですねえ。何処ら辺りで?」
「……神社裏の森の中だったか。ああ、当然此処とは違う場所だが」
記憶を辿りながら答える。
「もしや、高倉様はその仏様をご覧になったんで?」
「……ああ。年端も行かぬ若い娘であった」
眉を顰める私とは逆に、男が愉快そうに、にぃ、と嗤う。
こみ上げる悪寒を堪えながら男を見つめる。
「で、高倉様はそれをお調べにいらしたんで?」
「ああ。見回りも兼ねてだが」
答えると、男はまた、にぃ、と嗤って見せた。
「高倉様お一人で?」
ぞくりと心臓が震える。
「……勿論、回る時は一人だが、最近は日数も置かず何軒も起きているから手分けして回っているのだ」
「ははあ、成程」
くすくすくす……
男が大仰に頷くのと同時に何処からともなく女の嗤い声が聞こえた。
「!」
びくりと肩を揺らすと、男はにやにやと嗤っていた。
まさか、この男が?
「しかしあれですねえ。いくら剣を修めたお侍様とは言え、人を十人も斬っている人斬り相手に、
いざとなったら一人で立ち向かわなければいけないなんて、殺生な話ですねえ」
「あ…ああ……しかし、それが勤めだからな」
冷や汗を掻きながらそう言うと、男は、にぃ、と嗤った。
「さすがお侍様ですねえ。ご立派だ」
男の語調が微妙な変化を見せる。
「それならば妖の類も恐れ知らずでしょう」
男の手がこちらへ伸ばされる。
それを弱々しい悲鳴を上げて避ける。
その様が可笑しかったのか、男はあの笑みを浮かべる。
女のように華やかな。しかし、どこか頽廃的な。
此処には狐狸の類が出ると聞いた。
「そ…そなたは物の怪か」
上擦った声で問いかけると、男は紅唇で笑みを描き、女のような所作で首を傾げた。
「さて……どちらだと思いますか?」
人か、物の怪か……
一人怯えていると、男は考えを見通したように首を振って否定した。
「いいえ。そうではなく……」
物の怪は、貴方とあたし…どちらでしょうねえ……?
男の白い指が一点を指し示す。
私の袖口についた、赤黒い、雨に滲んだ、何かの跡。
「うわああああぁぁぁ!」
絶叫と共に刀を鞘走らせ、男を斬り伏せた。
鮮血が迸る。
噴き出した血で僅かな蝋燭の灯が消え、全てが闇に溶けた。
漆黒の闇。
荒々しい自分の呼吸の音だけが五月蝿く耳につく。
その中でも鈍く輝く、美しい、それ。
男の紅い血を纏い、密かな嘆息を吐き出す気配を感じる。
ああ、欲しい欲しい欲しい……
わかっている。
またすぐに、喰わせてやる。
血を払って鞘に収めようとした時、
くすくすくす……
あの女の嗤い声が聞こえてくる。
目を見開いて辺りを見回す。
徐々に闇に慣れつつある眸で油断なく見渡す。
汗が額を伝い、目に入る。
いや、これはあの男の血かもしれない。
くすくすくす……
慌てて目を擦っていると、再びあの嗤い声が聞こえた。
「だ、誰だ!?」
狭い室内に沈む闇に私の呟きは霧散する。
闇の中には私以外何も存在しないかのような静寂。
いや、待て。
何かがおかしい。そうだ。
雨は。
雨はいつ止んだ……?
足元に転がっているはずの男を見る。
仰向けに倒れた男。
手には抱いた琵琶から……
琵琶から、白い、女の腕が。
「ひっ……!」
喉からは引き攣れた声しか出ない。
白く艶かしい女の腕は男の頬へ伸ばされ、愛しげに撫でる。
「ねえ、高倉様。朱椿は可愛いでしょう?」
不意に耳元から声が聞こえた。
「うわああぁぁ!」
慌てて後ろを振り返って飛びずさると、男が琵琶を抱いて其処に立っていた。
「おや、酷い。高倉様のお蔭で一張羅が台無しだ……と言っても、高倉様には見えはしませんかねぇ」
何故。
何が。
彼は。
混乱した頭に答えの出ない疑問が次々に溢れ出ては更なる混乱へ突き落とす。
「ねえ、高倉様」
呼びかける男の顔と琵琶の腕だけが白く浮かび上がる。
「これはあたしが今日手に入れた瓦版の一番新しいやつですが……九人目が殺された、と書いてあるんです」
ひらり、と男の手から紙切れが落ちる気配がした。
「九人目……昨日の宵の口に商人の若い男が、と。貴方がご覧になった娘は……誰にも見つかっていない」
どうして。
言葉が紡がれる。
男の唇から。
紅い紅い唇から。
いやあれは女の唇だ。
琵琶から出た腕の女のか。
いやあれは殺して来たばかりの娘の唇。
――貴方が斬り殺したあの娘は でしょう?
男が琵琶を掻き鳴らす。
琵琶の音が女の悲鳴のように頭蓋に轟く。
やめてやめてやめて
おねがいだからごしょうだからほんとうにもう
そう言って縋ってきた、あいつを。
やめていやだなにするの
いやこわいこわいこわいどうしちゃったの
おねがいやめてしょうきにもどって
おとっさん
『こんな夜遅くに何処行くの?』
そう訊いてきた、あいつを。
人気のない森に連れ出して、斬って、血が噴き出して、それを浴びて、嗤ったのは。
奈落の底から響くような、男の絶叫が琵琶の音に重なった。
「お喰べ、朱椿」
雨は止んでいた。
旅の道中、路銀に困って一泊させてもらうつもりで飛び込んだ寂れた神社には先客がいた。
深紅の女物を着た、風変わりな男だった。
男は琵琶を能くするというので、一興とばかりにひとつ聴いてみた。
「あたしはちょいとした噺をする琵琶法師もどきでしてね」
そんな前置きをして男が琵琶を弾きながら語った噺は、嘗ては名匠と言われながらも妖刀に魅入られた悲し
い刀匠の親子の話だった。
「そうか……その男も、刀造りに行き詰ったばかりに…そんな刀に手をだしてしまったんだなあ。
娘も憐れだがその男もまた憐れだ。弱い者が破滅していく…厭な世の中さ」
しみじみと携帯用の酒瓶から安酒をちびちびと注いでは欠けた杯を傾けていると、男は人好きのする笑みを
見せた。
「お坊様は好い男ですねえ」
「はは。坊主といってもふりだけさ。この通り、破戒の限りを尽くしてる破戒僧さ。
お蔭でこうして人様からも恵んでもらえずに食うにも困る有様だがね」
つるりとした頭を撫でながらそういうと、男はくすりと笑いを漏らした。
「だが、その琵琶がとびきりいい琵琶だってのはわかる。お前さんの腕もな」
「ふふ。持ち上げても何もでやしませんよ」
「いいものはいいからそう言っているだけだ」
豪快に笑ってそう言うと男はまた、やはりお坊様は好い男ですよ、と言って再び琵琶を構えた。
「あたしはこれ以外何もできないケチな芸人でしてね。人の好いお坊様と、憐れな親子の為に、
一つ奏でましょうか」
開け放した扉からひんやりとした夜風と共に冷たい月の光が入る。
静謐な空間を壊すでもなく、透明な琵琶の音が心の闇を浚うかのように流れる。
「ああ……やはりお前さんはいい腕を持ちなさる」
――そしてその琵琶も好い女だ。
「気づいておられましたか」
「一応坊主だからな」
「どうぞお目溢しを」
「何言ってやがる。俺の方が目溢ししてもらわんと。
お前さんを敵に回して明日のお天道様が拝める気はさらさらしねえ」
男ははた、と手を止めて見上げてきた。
「それでもあたしと一夜を共に明かす気で?」
「うん? ああ。悪いものかどうかは見ればわかる。それでも殺られたなら俺が間抜けだっただけの話さ」
「……やはりお坊様はとびきりの好い男ですよ」
くつくつと肩を揺らして笑う男の声と、くすくすと忍び笑いを漏らす女の艶やかな嗤い声が聞こえてくる。
「そんなことはどうでもいい。それより、さっきから手が止まってるぞ」
「ああ、失礼」
再び琵琶から美しく淋しげな旋律が流れ出す。
「だが、それの始末はしておけよ」
「承知」
にぃ、と男が笑う。
男の背後には、腹に刀を突き刺して自刃した、憐れな刀匠の姿があった。
刀匠は腹に刺した刀を深く自身に突き刺すように、痛みを堪えるように、何かを後悔するように、
首を深く垂れていた。
その男を魅了してやまなかった刀は男の腹に刺さり、その血を貪っていてなお、美しく鈍い光を放っていた。
「闇に魅入られた人間は、光の中には還れない」
じょう、
琵琶が啼く。
「闇は闇へ、行き場を失くした憐れな魂はあたしらが」
月明かりしかない薄闇の中で、琵琶が仄かに妖しい光を纏う。
「闇の揺り籠を」
坊主はそれから目を逸らし、欠けた杯を満たす酒に、欠けた月を映して一息に飲み下した。
それは、月が雨上がりの地上を洗うように照らす、さやかな夜のことだった。
終
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